コーチ茂原陽の物語

「これは、コーチ茂原陽の物語である」

彼は、1971年に、左耳がほぼ聞こえない姿で、世の中に送り出された。ほぼ右耳だけを頼りに、目の前の荒波を「Survive」していったようだ。「右耳」だけなので、集中して強く意識を向けていないと人の話が聴けなかった。

幼い頃からずっと、「人の話」を、想像を超える集中力とエネルギーで聴いていた。聴き続けていた。

時に、声がよく聞こえないと、相手が何を言っているか、何を考えているかを、「表情」や「雰囲気」から察知しようと目を向け続けていた。

生き残るために──

その瞬間、瞬間を積み重ねてきた彼は、いつしか眼の前の人に、深い興味と関心をよせ、表面ではなく、その人の“本質”を観る目と、心の震えを“聴く耳”を持つようになっていた。

これが、彼のコーチとしての原点でもあり、人は誰しも「唯一無二の存在である」と信じる原点でもあった。

だが、そんな彼にも、さらなる人生の試練が待っていた。

2002年初夏。

IBMでトップエグゼクティブを目指し、営業職に転向。幕張の研修所での学びに集中していた最中、一本の電話が彼の世界を静かに揺るがした。

当時はまだ“彼女”だった人からの電話だった。「〇〇に血が混じっていた、検査を受けないと…」検査の結果は、最悪。厳しい現実。

けれど、振り返ると、彼のコーチ人生は、その瞬間から静かに、しかし確かに始まっていたのかもしれない。

「これからの人生、何を目標にして、何をしていけばいいのか…」

彼女の不安と迷い。その心に、ただ「そばにいる」だけでは届かないと悟ったとき、彼は必死に探し始めた。そしてたどり着いたのが──「コーチング」だった。

最初は、コミュニケーション心理学。人の心をどう捉え、どう言葉にし、どう導いていくのか。気づけば、コーチングの学びは20年を超えていた。

彼女との日々は、散々彼女の地雷を踏み、喧嘩をしながら、でも、どこまでも濃密で、かけがえのない時間だった。

共に笑い、共に泣き、共に学び、共に喜び、共に苦しみ、共に挑み、共に願ったその5年強。どんなセミナーや資格よりも、彼にとって「人を信じ、関わることの意味」を教えてくれた日々だった

そして、彼女が旅立った。

彼は日本IBMでの仕事を続けたが、最先端の技術を追い続ける世界と、人の本質に触れ、命に寄り添う自分の想いのズレが、どうしても埋まらなかった。やがて、静かに、IBMを去った。

それからしばらくの時間。地の底にいるような日々を送っていたという。

けれど、消えなかった。胸の奥に灯り続けていた、蝋燭の一筋の火のような「想い」だけは、消えなかった。

そして、2023年5月。彼はもう一度、自分と小さな、でも大きな約束を交わす。

「今度こそ、自分のど真ん中で生きていこう」

コーチとして起業した彼は、4ヶ月で100時間超のセッションを積み重ね、2ヶ月でコーチングビジネスを整備した。ひたすらに学び、磨き、鍛え、探求し続けた。

彼のコーチとしての原点は誰かと聴かれると、「NLP創始者のグリンダーのセッションを目の前で見たことがある」わずか15分のセッションで、通訳を挟みながらも、クライアントとの関係性を創り、変容を生み出す“魔法のような瞬間”に立ち会った。

「今でも忘れられない。あれほど心が震えたセッションはなかった」コーチとして超えたいと思う存在は誰?そう聴かれると、世界No1コーチのアンソニーロビンズそして、一兆ドルコーチのビル・キャンベル。そう語る彼は、時に酔うとこう言葉にする

「でも、亡くなった彼女には敵わないんだ」

「彼女は、本当に人の話を聴く天才だった。誰とでも、すぐに心が繋つながって、盛り上げる。永遠に超えられない、最高の師だよ」

そんな彼の、コーチとしての“志命”は明確だった。「自分のように、生きること自体がチャレンジだった人が、自分の唯一無二の価値を信じ、再び立ち上がって、 人生のど真ん中で、心動く未来へと飛躍する姿が見たい」その想いが、やがて「至高のリーダーシップ」となって形になった。

このプログラムは、過去を否定するものではない。むしろ、その過去を「未来の武器」に変えるための旅だ。どれほど深い喪失、どれほど大きな失敗も、人生を“再創造”する源になると、彼は信じていた。

コーチングの場では、

・一瞬で関係性を創り

・すべてをさらけ出せる空間を整え

・過去・今・未来を共に“臨場”し

・感情体験を共に味わい尽くし

・珠玉の問いを差し出し

・そして、最後に「小さな第一歩」というGIFTをそっと渡す

彼のセッションは、まるで映画のようだったという。その関わりから、多くの挑戦者が生まれ、日本の様々な現場で、想いを語り、行動を変え、新たな価値を生み出すリーダーとなっていった。

そして、そのリーダーたちが生んだ輝きが、また次の誰かを照らす、それは、まるで雨上がりの一輪の黄色い薔薇の花びらから、珠玉の一滴の水滴が、海に落ち、その波紋が世界に広がっていくように、そんなシナジーが生まれ、世界に輝きの連鎖が生まれていった。やがて、彼のもとには、志を持ったコーチたちが集まってきた。

コーチングで世界をより良くしたい──

そんな仲間たちと共に、コーチのチームを創り、いつしか「世界で“コーチ”と言えば茂原陽」と称される存在になっていった。そして何よりも、彼が最も大切にしていた時間は、90分の1対1のセッションだったという。

「リアルに向き合った人数は限られているかもしれない」「でも、その先に“輝いていった人”は無限大だと思う」晩年、足が思うように動かなくなっても、近くの公園まで、ゆっくりと歩いていき、お気に入りのテーブルに腰を下ろした。

彼のもとにはいつしか、夢や希望を語る少年たち、挑戦を語る青年たち、恋や情熱を語る乙女たち、世界を変えたいと願うリーダーたちが集まり、語り、笑い、時に泣いた。

彼は多くを語らなかったが、でも、頷き、微笑み、その場に“いること”が、すでにギフトだった。彼の旅が、いつ終わったのかは誰も知らない。

けれど、彼の墓石には、こう刻まれている。「あなたらしい人生を、あなたらしい歩み方で」「死するまでコーチたりき」その墓には、時々人が訪れるらしい。まじで時々。彼らしい。笑。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次